2012年07月01日

沖縄の島守

今日から7月です。
先日読んだ神社新報に大変心に残る記事が載っていましたので紹介します。

 昭和19年の10月10日、初めて那覇が大空襲を受けて以来、沖縄は平穏な南の楽園から戦場へと変わっていきました。このようななか、米軍が押し寄せて来ようかという非常事態の中で、県民を護るべき知事が不在になってしまいます。島田の前任知事は、東京に出張したまま、そこで香川県知事の発令を受けて赴任し、二度と沖縄に帰ってくることはありませんでした。そこで、内務省が白羽の矢を立てたのが大阪府内務部長の島田叡でした。この時期、沖縄にいってくれということは、実質「死ね」と言うようなものです。
 昭和20年1月11日、池田清大阪府知事の要請に、島田は「私がいかなかったら、誰かがいかねばならんでしょう。私がいきます」と即答しました。
 昭和20年1月31日、島田は沖縄に着任します。荷物はトランク2つだけ。日本刀と自決用の青酸カリを携えた覚悟の赴任でした。島田の知事としての主任務は、やがて戦場となる沖縄において軍に全面協力するとともに、戦火のなかでいかに県民の生命を守り、犠牲を少なくするかということでした。
 昭和20年4月より6月末までの3ケ月間、両軍は死闘をくりひろげましたが、日米両軍の戦力の差は歴然、天地ほどの隔たりがありました。軍民一体の日本軍は勇戦奮闘、米軍を大いに苦しめるのですが、戦力の差は如何ともしがたく、3ケ月に及ぶ徹底抗戦もむなしく次第に南部に追い詰められていきます。
 毎日新聞の支局長が6月19日、沖縄脱出にあたり島田知事に最後の別れの挨拶に来ます。支局長は知事に対してかねてからの思いを伝えます。
 「知事さんは赴任以来、県民のために、もう十分働かれました。文官なんですから最後は手を上げて出られたら良いではありませんか」
 すると島田はキッと顔を上げ、切り返すように言いました。
 「君、一県の長官として、僕が生きて帰られると思うかね。沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろう」
 「それにしても、僕ぐらい県民の力になれなかった県知事は、あとにも先にもいないだろうなあ。これはきっと末代までの語り草になると思うよ」
 6月23日、牛島満司令官と長勇参謀長らが自決します。島田知事と、そして最後まで行動を共にした荒井退造警察部長は6月26日に摩文仁の壕を出て、他所で自決しました。目撃証言によるとその死は7月であることがわかりました。島田知事43歳、荒井警察部長44歳でした。
 沖縄県第27代県知事・島田叡は、いかに戦争とはいえ、県民の命を守ることができず多くの人々が斃れていったことを自分の責任とし、一死を以ってその罪を償いました。知事のこの高潔無比な行為は「島守の神」として今も沖縄の人々の魂の中に生き続けています。
*原文:歴史的仮名遣い
(「神社新報」第3119号:平成24年5月28日より抜粋 大分縣護國神社宮司小野日隆氏記)

この島田知事以下沖縄県戦没職員の慰霊碑は、摩文仁の丘の入口とも云うべきところに建っており、知事の遺徳は今も沖縄県民の間で称え続けられているそうです。



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