2013年04月28日

4月28日は何の日?


今日、4月28日はサンフランシスコ平和条約が締結された日。日本が主権回復した日。
それ以上は何も言いません。以下の絵とリンク先をご参照ください。


http://ja.wikipedia.org/wiki/李登輝
  


2013年04月24日

靖國神社春季例大祭

4月22日の靖國神社春季例大祭に閣僚が参拝したこと、内閣総理大臣が真榊を奉納したことに対し、抗議をしてきた国があります。
若干の国からの抗議に便乗して報道するマスメディアが多い中、地方新聞では称賛の意見も記されているようです。
大手メディアが世論のすべてではない!地方新聞の小さな声にも耳を傾けよう!

以下の2つの記事は、知人の神職の紹介によるものです。
例によって、元記事へのリンクを貼ると同時に、削除・移転対策として原文コピペもしておきます。


東海新報(http://www.tohkaishimpo.com/
☆★☆★2013年04月24日付
 作者本人が「ゆるきゃら」だった赤塚不二夫さんの漫画「天才バカボン」に挿入されたアニメソングは「これでいいのだ!」のリフレイン(繰り返し)ですっかり耳になじんでいるが、この「諦観」というか「達観」が今後の日本に必要な気がする▼ここでなぜ天才バカボンなのかというと、昨日の新聞に載った「韓国外相、訪日を中止」という記事が目に止まった瞬間、「それがどうした?」という疑問が浮かんだからである。むろんそれは麻生副総理ら閣僚の靖国参拝に対する韓国側の対応なのだが、そこですう~っと出てきた対句が「これでいいのだ!」だった▼今月末に予定されていた日韓両国外相の会談が韓国側の都合で中止になった。その都合というのが、すぐれて日本の国内問題である靖国神社参拝を閣僚たちが強行し、安倍首相までが真榊を捧げたのがけしからんというのだから、これは内政干渉という以前に「お門違い」というものだろう。こんなことで悪化する信頼関係など無意味であり、日本政府は毅然として所信を守ることである▼超党派の日中友好議員連盟が5月に予定していた中国訪問も中止となったのは相手が忌避したからで、これだって日本国民からすれば「これでいいのだ!」で済まされる種類のものであり、鷹揚に構えておれば時は過ぎて世はこともなしとなる▼靖国問題をいつまでも外交カードにさせておくべきではない。これは民族としての慰霊習俗行事であり、ここで決着をつけるためにも安倍首相は今度こそ参拝すべきである。

北國新聞(http://www.hokkoku.co.jp/
◎議員の靖国参拝 外交問題にしない配慮を
 閣僚や国会議員の靖国神社参拝をことさら騒ぎ立て、外交・政治問題化するのはもうや めにしたい。靖国参拝について国内外でさまざまな意見があるのは事実だが、これを外交問題にまでこじれさせると、お互いが傷つき、国益を損なうだけである。
 韓国外務省は閣僚の靖国参拝を理由に、今月中に予定していた尹炳世外相の訪日を取り やめた。日米韓が連携し、北朝鮮の暴挙を止めるべき時期に、わざわざ敵に塩を送るような行為ではないか。
  中国の外交部報道官は会見で、「侵略の歴史を直視し、深く反省してこそ、未来を切り 開く」と述べた。東京裁判のA級戦犯が合祀(ごうし)された靖国への参拝は侵略戦争を肯定する行為と言いたげだが、そんなこじつけをする国は、中国と韓国ぐらいではないか。
  国政を担う者が戦没者に哀悼の意をささげるのは、ごく自然な行為である。追悼の仕方 は国によってさまざまであり、それにあれこれ口を出し、一方的に批判するのは、賢明なやり方とはいえない。特定の歴史観や価値観を振りかざし、高圧的に反省を迫る手法に、多くの日本人は辟易(へきえき)している。思想・信条に関わる微妙な問題に土足で踏み込まず、外交問題にしない配慮が求められる。
  靖国神社へは麻生太郎副総理兼財務相ら3閣僚と超党派の国会議員168人が参拝した が、安倍晋三首相は、供え物の真榊(さかき)を奉納しただけにとどめた。安倍首相は23日の参院予算委員会で、靖国神社参拝について「するかしないかは、ここで今申し上げるつもりはない」と述べ、あらためて明言を避けた。これも靖国問題を政治問題化させないための知恵だろう。
  靖国参拝を報じる日本のメディアは、異口同音に「公人」か「私人」を聞くが、これに も違和感がある。記帳がどうあれ、参拝を「公人」としての行為と決め付けてしまうのは無理がある。自らの思想・信条に基づく「私人」としての行為と見なすのが自然だ。そもそも公人と私人を区別し、公人なら許されないが、私人ならやむなしという理屈に、合理的な意味があるとは思えない。


  

2013年04月23日

ビストロSMAP

昨晩、何気なくテレビをつけたら ビストロSMAPが始まったところでした。
チャンネルを変えようとしたら、ゲストが石破茂自由民主党幹事長ということでそのまま見ることに。
幹事長の気さくな性格がにじみ出ており楽しく拝見しました。

興味深かったのは、自身が国会議員を志した頃や、当選して間もない若手議員の頃のお話し。
当時の大物議員に教えられた政治家としての在り方には非常にを覚えました。

この番組、録画されている方がいましたらもう一度観たいですね。


それと、もう1つ国防に関してわかりやすい例を出されていました。
万が一の場合、日本の戦車は信号が赤なら止まらなくてはいけないが、敵国の戦車はそんなものは無視して進んでくる。
だから有事法案を作成したというお話。

これは、以前に青山繁晴氏の講演でも聞きましたし、先日の百地章先生の講演でもお話があったポジティブリストとネガティブリストのことと深く関係があります。

自衛隊はポジティブリストで行動しますから、「非常時には道路交通法を無視しても良い」と決められていない限り、赤信号は守らなくてはいけません。
しかし、世界の軍隊はネガティブリストで行動しますから、「赤信号を無視してはいけない」と記されていなければ非常時は無視することができるのです。
(少なくとも私はポジティブリストとネガティブリストに当てはめるとそうなると解釈しています)

有事法案の可決によって自衛隊の戦車も緊急時には信号を無視できるようになったというのが、石破幹事長のお話でした。
でも、できればポジティブリストの項目を増やすのではなく、ネガティブリストで行動できるようにしましょう。

もう1つ興味深かったのは、石破首相誕生の可能性についてです。
ビストロSMAPに出演した政治家は後に首相になっていると、過去に出演された「小泉純一郎氏」「安倍晋三氏」「麻生太郎氏」などを紹介され、石破総理も近々ではと投げかけていましたが、幹事長は「ちかくない」と2度否定されました。
安倍政権が長く続くことが日本の信頼度を回復させることであり、自分はそれを支える立場である。したがって自分が総理になる時期が早いというのはよくないことだということでしょう。

タレントとの気さくなやり取り、そしてバラエティー番組の中ですがわかりやすい政治的な話も少し交えており、興味深く見ました。  

2013年04月16日

教科書には載っていない真実の歴史

以下、全部引用ですが、大切なことです。
お子様をお持ちの皆様。ご自分の子供が学んでいる教科書を見たことがありますか?

本当に政府広報としてこういうものができてくるようになると良いのですが。
いずれにしても、日本が日本でなくなってしまう寸前のところで、ようやく歯止めがかかり始めたように感じます。






教科書には載っていない真実の歴史を次の世代へしっかり教えていきましょう。
戦後、日本に対する各国の言葉や、当時の米国の本質など。

ククリックド・プラモード (タイ国元首相)
「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。
日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、産まれた子供はすくすくと育っている。
今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。
それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。
十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意をされた日である。
我々はこの日を忘れてはならない。」( 十二月八日、現地の新聞「サイアム・ラット紙」において )


邱永漢 (台湾出身の作家)
「台湾に日本統治の五十年がなければ、人々は依然として ( 貧しい暮らしで有名な )中国の海南島と同じ程度の低いレベルにあったであろう 」 


H・G・ウェルズ(SF作家)
「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた。」
(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)


アーノルド・J・トインビー(歴史学者)
「第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したと言わねばならない。
その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。
日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。」
(英紙『オブザーバー』、1965年10月28日)


スタッタード(歴史学者)
「すでに四百年の間、連続的勝利によって、白人は本能的に自己の膨張は無限に継続するものと信ずるに至った。1904年の日露戦争以前には、自己の膨張が停止するというような思想は白人千人中の一人にも考えがおよばなかった。
(中略)1900年は、四百年間みなぎりきった白人潮勢の頂点であった。白人はその時、威名と実力の頂上に達したのである。その後わずか四年にして日本は猛然起って露国に抗し、旅順港に巨砲弾を浴びせて世界を驚かした。その刹那に白人の退潮が始まった。」
(ロスロップ・スタッタード『有色人種の勃興』長瀬鳳輔訳、政教社、147, 151頁)


ダグラス・マッカーサー(GHQ総司令官)
「日本の潜在労働者は、量においても質においても、私がこれまで知っている中の最も立派なものの一つである。
しかし、彼らは労働力はあっても生産の基礎素材を持たない。 日本には蚕のほかに取りたてていうべきものは何もないのだ。 日本人は、もし原材料供給が断たれたら(経済封鎖されたら)一千万から一千二百万が失業するのではないかと恐れていた。
それ故に、日本が第二次世界大戦に赴いた目的は、そのほとんどが、安全保障のためであった。」
(1951年5月3日・米上院の軍事外交合同委員会の聴聞会における発言、名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)


ジョイス・C・レブラ博士(米国コロラド大学歴史学部教授)
「大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、各国の青年を教育し、組織し、独立精神を振起した点にある。 その遺産は戦後も様々な形で生き続けている。
日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味を持っていた。
今や真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮かび上がってきたのである。
民族主義者は、日本占領期間中に(日本軍により)身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地復帰に対抗した。 そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。
(中略)さらに日本は独立運動を力づけ、民族主義者に武器を与えた。 日本軍敗走の跡には、二度と外国支配は許すまいという自信と、その自信を裏付ける手段とが残ったのである。
東南アジアの人間は今や武器を手にし、訓練を積んでおり、政治力、組織力を身につけ、独立を求める牢固たる意志に支えられていた。」
(『東南アジアの開放と日本の遺産』秀英書房、256-257頁)

「東京で開かれた極東国際軍事裁判で、打ち出された一つのイメージ、即ち、日本は世界で最も強欲な軍国主義国家の一つであったとする思想は、太平洋の西側で、長い間再検討されないまま放置されていた。
公私の資料の入手難が解明を遅らせ、太平洋戦争の幾つかの局面を暗闇に閉じているのが現状である。又、日本の歴史家達は、東南アジアに於いて日本が大東亜共栄圏に託した理念、実現の方法等を吟味する事に、今日迄消極的であった。
ごく最近になって、アメリカ合衆国の学者は、日本の戦争目的を再検討する事に着手し、これ迄の定説を修正し始めた。
(中略)再検討を志すアメリカ合衆国の学者達の意見に依れば、太平洋戦争は、西欧資本主義流の帝国主義の単なる日本版では無く、それにもまして西欧諸国の進出によって脅威を受けた日本が、(自国の)存亡に関わる権益を防衛する為の戦いであったのである。
更にアジアを包含しようとする大日本帝国の野望として従来は見なされていた、大東亜共栄圏の理念も又再検討されて然るべきである。」
(ジョイス・C・レブラ『チャンドラ・ボースと日本』原書房、1969年)


ジョージ・S・カナへレ博士(ハワイ・日本経済協議会事務局長)
「日本占領軍が、インドネシア民族主義の為に行った種々の訓練の中で、最も重要なものの一つは、インドネシアに正規軍及び準軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事であろう。
この作業は、特にジャワ、バリ及びスマトラの各島で推し進められた。 後に、インドネシア独立軍の将校や下士官となった者達は、殆ど全て、及び何万と言う兵士達は、この訓練を経て、軍事技術を身に付け、日本の敗戦後に戻ってきたオランダ軍を相手に、独立戦争を戦ったのであった。
もし、この訓練が無かったなら、そして日本の降伏後、インドネシア人の手に入った日本軍の武器や軍需資材が無かったなら、インドネシア独立戦争の行方は違った方向に進んでいたかも知れない。」
ジョージ・S・カナへレ『日本軍政とインドネシア独立』鳳出版社、1977年)


ハミルトン・フィッシュ(政治家、『悲劇的欺瞞』(Tragic Deception, 1983) )
「ルーズベルト大統領は、その絶大な権力を使って遂に米国を日本との戦争に巻き込むことに成功した。 そのことは、米国を欧州における戦争に参戦させるという彼の最終的な目的を達成させた。」
(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)


ニミッツ元帥(太平洋艦隊司令長官)
「この島を訪れるもろもろの国の旅人達よ。
故郷に帰ったら伝えてくれよ。
この島を守るために、日本軍人は全員玉砕して果てた。
その壮絶極まる勇気と祖国を想う心根を!」
(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)


米国戦略爆撃調査団
「日本の指導部が、国家の存亡に関わる利益の為にと固く信じて、(今次の)戦争を始めた事は明らかである。
これに対して、アメリカ合衆国は、単に自分達の経済的優位と主義主張を押し付けようとしたのであって、国家の存亡に関わる安全保障の為に戦ったのでは無いと、アメリカ合衆国人は信じていた。」
(米国戦略爆撃調査団団長ニッツからトルーマン米国大統領に提出された報告書、1946年7月)


ベン・ブルース・ブレークニー(東京裁判弁護士)
「原子爆弾という国際法で禁止されている残虐な武器を使用して多数の一般市民を殺した連合国側が、捕虜虐待について日本の責任を問う資格があるのか」


カーチス・B・ドール大佐(ルーズベルト大統領の長女の夫)
「ホワイトハウスで1941年11月25日に開かれた運命的な会議の記録を読み返してみて、私の以前の岳父、ルーズベルト大統領および側近たちの戦略は、平和を維持し保証することではなく、事件を組立て、あるいは引き起こさせて、アメリカを日本との戦争に巻き込むという陰謀にもっぱら関わっていたと、私は悟ったのです」


ハーバート・フーバー氏(アメリカ元大統領)
「若し吾々が日本を挑発しなかったならば決して日本人から攻撃を受ける様なことはなかったであろう」


ハリー・エルマー・バーンズ氏(歴史学者)
「大西洋でヒトラーを戦争行為に挑発出来ない事がはっきりしてきた1941年6月の、日本の経済的封殺で始まった戦術の切り替えを除いては、戦争への道はまったく直線的であった。
全局面を通じる戦争工作の建築家であり大指揮者だったのはフランクリン・デラノ・ルーズベルトだ」


エリオット・ソープ氏(GHQ対敵情報部長)
「日本人に損害を受けて怒りに燃える偏見に満ちた連合国民の法廷で裁くのは、むしろ偽善的である。
戦争を国策の手段とした罪等は、戦後に作り出されたものであり、リンチ裁判用の事後法としか思えなかった」


ジェシー・ジョーンズ氏(ルーズベルトの商務長官)
「ルーズヴェルトは、『私は戦争を憎む』と度々述べたのにもかかわらず、彼は、参戦に非常に熱心だった。なぜならば、参戦は3期目の大統領の地位を約束するからであった。
もし、彼が大統領に三選されたならば、それは彼の二つの大きな希望を満たすことになる。
すなわち、一つは戦争をするということであり、もう一つは史上初めての三選を果たした大統領として、彼の虚栄心を満たすことであろう」


ハミルトン・フィッシュ氏(共和党上院議員)
「アメリカが戦争に参戦したかった理由は、過去6年間の自己の失政を糊塗する為。
過去6年間のルーズベルトの失政(「ニュー・ディール」政策)、戦争指導者としての歴史に名を残したいという自己顕示欲を満たす為。
大統領自身が国際連合を組織して、ソ連のスターリンとともにその支配者になるためである」


ヘレン・ミアーズ氏(GHQメンバー)
「なぜ日本が韓国国民を「奴隷にした」と非難されるか理解できない。もし奴隷にしたならば、イギリスは共犯であり、アメリカは少なくとも従犯である。
日本の韓国での行動は全てイギリスの同盟国として「合法的に」行われたことだ。国際関係の原則にのっとり、当時の最善の行動基準に従って行われたことである。
しかも原則は日本が作ったものではない。欧米列強が作った原則なのだ。
1910年、日本が韓国を併合したのは、韓国皇帝が「請願」したからだ。
歴史家は、日本は欧米列強から教わった国際関係の規則を、実に細かいところまで几帳面に守っていた、とほめるのだ」


スリム中将(イギリス第14軍司令官)
「たたかれ、弱められ、疲れても自身を脱出させる目的でなく本来の攻撃の目的を以て、かかる猛烈な攻撃を行った日本の第三十三師団の如きは、史上にその例を殆ど見ないであろう。」
「かくの如き望みのない目的を追求する軍事上の分別を何と考えようとも、この企図を行った日本軍人の最高の勇気と大胆不敵さは疑う余地がない。私は彼等に比肩し得べき如何なる陸軍も知らない。」
(『敗北から勝利へ』)


エリック・ホプスバウ博士(英国ロンドン大学教授)
「インドの独立は、ガンジーやネールが率いた国民会議派が展開した非暴力の独立運動に依るものでは無く、日本軍とチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍(INA)が協同して、ビルマ(現ミャンマー)を経由し、インドへ進攻したインパール作戦に依ってもたらされたものである。」
(エリック・ホプスバウ『過激な世紀』)


ラダ・ビノード・パール(極東国際軍事裁判判事・法学博士)
「 要するに彼ら(欧米諸国)は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の一七年間(昭和3-20年、東京裁判の審理期間)の一切を罪悪と烙印する事が目的であったにちがいない。・・・・私は1928年から1945年までの一七年間の歴史を二年七ヶ月かかって調べた。この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った。
その私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということがわかるはずだ。
それなのに、あなた方は自分らの子弟に、「日本は犯罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ」を教えている。
満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。
日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを私は平然として見過ごすわけにはゆかない。
あやまられた彼らの宣伝の欺瞞を払拭せよ。あやまられた歴史は書き変えなければならない。」
(1952年11月5日・広島高等裁判所での講演、名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)


グラバイ・デサイ(インド、インド弁護士会会長・法学博士)
「このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。
しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国国民においておやである。
私は日本が十年以内にアジアの大国として再び復興繁栄する事を確信する。インドは程なく独立する。
その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお陰で三十年早まった。
これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。
インド四億の国民は深くこれを銘記している。
インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。」
(1946年・デリーの軍事裁判に参考人として召還された藤原岩市F機関長に対する挨拶、名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)


トミー・E・レメンゲサウ・ジュニア(パラオ大統領)
「終戦までの日本は、数万人に及ぶ日本人入植者をパラオに送り込み、南洋庁を作り、私たちパラオ人のために様々な教育や産業を伝えました。それは後に、パラオ独立のための貴重な原動力となりました。そして現在でもパラオの長老たちは日本のことを「内地」と呼び、世界で最も親日感情が高い国、といっても過言ではないのです。」


チャンドラ・ボース(デリーインド国民軍裁判首席弁護人)
日本軍の勝利はアジアのインド人に感銘を与え、自由獲得の戦いに参加することを可能にした。日本政府は単に自己防衛のために戦うのではなく、英米帝国主義のアジアからの撲滅を期し、更にインドの完全な無条件の独立を援助するものである・・・


G・シャフエー(マレーシア外相)
なぜ、日本が謝るのでしょうか?あの大戦でマレーシア人と同じ小さな身体の日本人が大きな身体のイギリス人を追っ払ってくれたではないですか。日本なくして東南アジアの独立はありませんでした。この日本の尊い犠牲を否定することはバックミラーばかり見ているようなものです。


ブン・トモ(元情報相)
「我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。
インドネシアの場合は、三百五十年間も失敗が続いた。
それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。
我々は白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。
一度持った自信は決して崩壊しない。
日本が敗北したとき、”これからの独立は自力で遂行しなければならない。独力でやれば五十年はかかる”と思っていたが、独立は意外にも早く勝ち取ることができた。」
(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)


アリフィン・ベイ(ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士)
「 日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。
日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。
この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。
日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。
その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。
(中略)(日本は)目標達成のためにどれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。
この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。」
(『魂を失った日本』未央社、57-65頁)


アラムシャ陸軍中将(インドネシア大統領特使)
「平成5年7月、インドネシアのアラムシャ陸軍中将は大統領特使として来日しました。
その時福田元首相や塩川自治大臣(当時)などと会見し、大東亜戦争について「大東亜戦争が長引いたばかりに労務問題などで、ご迷惑おかけしました。」と述べると
「とんでもない。むしろ大東亜戦争を途中でやめたことが残念であったと思ってる。あと5年はやるべきであった。これは私だけの意見ではない。アフリカに行けば、みんなから聞く意見だ。中東に行けばみんなから聞く意見だ。」
「どういうことですか?」
「なぜアフリカがあんな状態なのか。我々と同じく40数年前に独立すべきであったがそうできなかったからだ。あそこはオランダ人とイギリス人とユダヤ人が握っているから、どうしようもない。もし日本があと5年大東亜戦争を続けていたならば恐らく中東まで進出していただろうから、中東諸国ももっと早く独立できたであろうし、日本軍の大変な勢いがアフリカにも伝わって、アフリカ諸国もインドネシアのようにもっと早く独立できただろう。そうすれば、南アフリカも現在のように苦しまずに済んだはずなのだ」
とアラムシャ陸軍中将は語りました。」
(中島慎三郎「アラムシャ陸軍中将の大東亜戦争肯定論」『祖国と青年』1994年2月号)


サンパス将軍(東欧大使歴任)
「平成3年、村山首相がASEAN諸国を謝罪して回った時、インドネシアの元復員軍人省長官で東欧大使を歴任したサンバス将軍は
「日本の戦争目的は植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアにまだ残っている。そんな時に行った村山演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。村山さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、A・A(アジア・アフリカ)の悲願を代表して、まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。かつての日本は、スカルノ、ハッタ、バー・モウ、ラウレル・アキノ、汪兆銘、チャンドラ・ボース等を応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾である」
となげいていた。」
(『(中島慎三郎「アラムシャ陸軍中将の大東亜戦争肯定論」『祖国と青年』1994年2月号)


サンティン(アムステルダム市長、現内務大臣)
「あなた方の日本国は先の大戦で負けて、私共のオランダは勝ったのに大敗をしました。
今日の日本国は世界で一、二位を争う経済大国になりました。
私達オランダは、その間、屈辱の連続。
即ち、勝った筈なのに、貧乏国になってしまいました。
戦前は「アジア」に大きな植民地(オランダ領東インド(蘭印)=ほぼ現在のインドネシア)が有り、石油等の資源・産物で、本国は栄耀栄華を極めておりました。
しかし今では、日本の九州と同じ広さの本国だけになってしまいました。
あなた方の日本国は、「アジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない。アジアの諸民族に大変迷惑をかけた」と、自らを蔑み、ぺこぺこと謝罪していますが、これは間違いです。
あなた方こそ、自らの血を流して、アジア民族を解放し、救い出すと言う人類最高の良い事をしたのです。
何故ならば、あなた方の国の人々は過去の真実の歴史を目隠しされて、先の大戦の目先の事のみを取り上げ、或いは洗脳されて、悪い事をしたと自分で悪者になっていますが、ここで歴史を振り返って真相を見つめる必要があるでしょう。
本当は、私共白色人種が悪いのです。
百年も二百年も前から、競って武力で東亜諸民族を征服し、自分の領土として勢力下に置いたのです。
植民地・属領にされて、永い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大崇高な理想を掲げて、大東亜共栄権樹立という旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。
本当に悪いのは、侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は戦いに敗れましたが、東亜の解放は実現しました。
即ち、日本軍は戦勝国の全てをアジアから追放して終わったのです。
その結果、アジア諸民族は各々独立を達成しました。
日本の功績は偉大であり、血を流して戦ったあなた方こそ、最高の功労者です。
自分を蔑む事を止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきであります。」
(1985年日本側傷痍軍人会代表団がオランダを訪問した時行われた市長主催の親善パーティの歓迎挨拶、(財)日本国防協会理事の浅井啓之氏が1994年3月24日作成)
  


2013年04月15日

憲法と歴史的仮名遣い

先日、和歌山憲法研究会創立1周年記念講演会として、日本大学法学部教授の百地章先生を講師にお招きし 「憲法改正を目指して ~課題と展望~」 と題したご講演をいただきました。

昨年2月11日に発会し、わずか5名で活動を続けていますが、当日は70名もの方にお集まりいただきました。ありがとうございます。

現行憲法の不備や、これからつくるべき憲法の内容などについては徐々に勉強してきていますが、新しくつくるべき憲法の表記について考えさせられた記事がありましたので紹介します。

国語は今も危機にある(四)
なぜ「歴史的かなづかひ」なのか
(神社新報 平成25年4月15日発行 第3160号)


≪前略≫
 S氏は、現行憲法の廃憲を唱へつつ、それが「歴史的かなづかひ」で書かれてゐることに触れ、新憲法も「歴史的かなづかひ」の文語文で書かれるべきだと主張して次のやうに言ふ。「なによりも私が問題だと思うのは、かなづかいなのである。現行憲法と現代かなづかいは、敗戦後の占領下で日本の伝統と文化に対して行われた破壊行為の最たるものであった。(途中省略)しかし、憲法は、いわば日本の正統の表現としての『歴史的かなづかひ』で表記されていなければならない。でなければ、日本は言葉に何の規範もない国になってしまう。言葉に規範がなくなれば、文化も精神も道徳もすべて崩壊し、やがて基軸をなくした国家も亡ぶことになるであろう」と。≪後略≫
 かつての文藝評論家の酒井隆之氏は「新カナの使用を見逃しながら伝統文化の擁護を謳ひ、国語への愛情を啓蒙し、或いは戦後憲法の虚偽を論ふ為には、何処かで姑息な現実との取引きに応じなければ不可能だ。さういふ現実的渡世の為の微細な嘘を積み重ねることが、やがて国を傷める因となる。(途中省略)憲法改正と違ひ、かなづかひの保守は、たつた一人、しかも筆一管でできる愛国運動である筈だ」と書いた。(平成十五年二月『正論』)
 また、同署で私の最も尊敬する小堀桂一郎先生は、「『正しさ』の喪失―倫理問題としての国語表記問題」と題し、戦後の漢字制限と現代仮名遣表記について「一言で言へば、以後日本人が『正しさ』を捨てて『便利さ』を取る、といふ重大な価値観の顚倒を公言したことになる。(途中省略)『正しさ』に対する畏敬の念が崩れさつた空間に於いて、真理の探究を使命とする学問がまともに育つ道理はない。正しい国語表記を尊重する念の欠けた徒輩に学問を論ずる資格無し。大学教官として現役であつた時代の私はこのことを口でも筆でも公言して、ずゐ分同業者達から憎まれ、嫌はれた様である。しかし私にしてみれば同業者達の誹謗など恐くとも何ともない。私が恐れるのはただこの国の杜に漂ふ言霊の怒りと祟りのみである」と書かれたのであつた。

 S氏の言ふやうに「現代仮名遣」が定着してしまつた現代においては『歴史的ななづひ』に戻すことは確かに難しいことかも知れぬ。だからと言つて私は諦めることをしない。私も「言霊の怒りと祟り」を恐れるからであり、「たつた一人、筆一管でできる愛国運動」を実践したいからである。たとひそれが「蟷螂の斧」に過ぎぬとも、マテオの正しい価値に対する頑固さに見倣ひたいと思つてゐる。仮名づかひは、「現代仮名遣」か「歴史的かなづかひ」かの二者択一の問題ではなく。祖国の文化防衛の問題だからである。
國語問題協議會評議員 土屋秀宇



「神社新報」の記事を抜粋する際に、現代仮名遣いに改めて転載することが多いのですが、今回は内容が内容だけに原文ママで掲載させていただきました。

さて、私も日常的には現代仮名遣いを用いています。「日常的には」なんて書くと、時には歴史的仮名遣いで文章を書くように聞こえますが、実際のところ祝詞を書くとき程度です。祝詞作文が歴史的仮名遣いなのかと言われると微妙な気もしますが・・・。
言い訳がましく言わせていただけば、ワープロ全盛のこのご時世、歴史的仮名遣いを正しく変換してくれる日本語入力ソフト(MS-IMEやATOKなどのIMEソフト)が存在しないからです。
パソコンを用いて文章を作成する、メールを書く、そういった中で、いちいち歴史的仮名遣いに直してゆくのは大変な手間です。どこかのメーカーで歴史的仮名遣い対応のソフトを発売してくれないものでしょうか。
もうひとつ言うならば、インターネットサイトを構築する際はサーチエンジンの検索にヒットさせるためには歴史的仮名遣いでは弱いという点も挙げられます。このあたりは歴史的仮名遣いが一般的になれば解消される問題ではありますが・・・。

言い訳はここまでにして、ちょっと本気で歴史的仮名遣いを勉強しなくてはいけませんね。今までやらなくては思いながら後回しにしてきましたが・・・。
そういえば、過日ご講演頂いた百地先生からの手書きFAXは歴史的仮名遣いでした。猛省。
(そもそも「歴史的仮名遣ひ」「現代仮名遣い」という名称も不適切に思えてきました・・・)  


2013年04月13日

神主さんが教えたい伊勢神宮



http://ahwin.net/jingu/

今年は伊勢の神宮の20年に1度の式年遷宮です。神宮式年遷宮は今から1300年も前に制度が整えられ、戦国時代に約100年間の中断がありましたが、脈々と古式のままに続けられている祭祀です。

一般に 「伊勢神宮」 と呼ばれますが、私たち神職が 「伊勢の神宮」 とお呼びするのは、正規名称は 「神宮」 だからです。
日本全国に「神宮」号のつく神社は沢山あります。
明治神宮、熱田神宮、北海道神宮、吉野神宮、宮崎神宮、霧島神宮、鹿児島神宮・・・。
しかし伊勢だけはなにもつかず、単に「神宮」と呼ぶのが正式な名称なんですね。

こんなことも含めて、神宮について伝えたいことは沢山ありますが、それらがこの電子書籍には記されています。
多くの方に神宮について知っていただきたいということで、無料で配信されていますので、是非ダウンロードして読んでみて下さい。
  続きを読む


Posted by 木霊 at 09:16Comments(0)伝統・文化

2013年04月09日

学生フリーペーパー

和歌山大学の学生が制作したフリーペーパー「towa(トワ)」の創刊号が発刊になり神社にも届けてくれました。





和歌山大学には和歌山県外からも多くの学生が入学していますが、和歌山の魅力があまり伝わっていないということで制作する運びになったと聞いています。

towaを手に取ってくれたすべての読者の方へ

みなさん、はじめまして。
私たちは、学生フリーペーパー制作団体towa(トワ)です。私たちtowaは、もっと多くの学生に和歌山の魅力を伝えたい、という思いから発足した団体です。観光地やお店だけでなく、和歌山で活躍する人も含めた和歌山の魅力を、今後の活動を通して一人でも多くの方に伝えていければと思います。和歌山には、まだまだ気づかれていないたくさんの魅力があるはずです。そのような魅力に気づいたら、あなたにもきっと少しずつ愛着心が生まれるはずです。この愛着心が、和歌山を元気にし、学生生活をもっと楽しいものに変えてくれる。そんな希望を持ちながら活動を続けています。まだまだ文章やデザイン等、未熟な点が多々あるとは思いますが、これからもこの活動に全力を尽くしていきますので、応援よろしくお願いします。

最後に、この度たくさんの方にご支援・ご協力いただき、無事本誌を発刊することができましたことを、この場を借りてお礼申し上げます。
それでは、本誌をお楽しみ下さい。
学生フリーペーパー制作団体towa



towaの学生さんが取材に来られた時尋ねましたが、代表の方は和歌山県外出身者でした。こういう方が和歌山の魅力を発信する情報誌を作ってくれるというのはとてもいいことだと思います。
勿論、県内出身の学生もたくさん携わっているとのこと。
冒頭のあいさつに書かれているように、和歌山にはまだまだ埋もれている魅力がたくさんあります。少しずつ学生目線で発掘してもらえればと楽しみに見守りたいと思っています。

そして記念すべき創刊号で取り上げられたのが「貴志川線」。沿線の神社とカフェの特集になっています。
社務所にも若干部置いていますので興味のある方はお立ち寄りください。





https://www.facebook.com/towatowa.10  


Posted by 木霊 at 10:11Comments(0)貴志川線

2013年04月02日

今月のお花




毎月、お花屋さんが本殿にお花をお供えしてくれます。
今月はこういうお花でした。  
タグ :お花