2018年05月14日

京都大学の立て看板

京都大学のキャンパスから外に向けて掲げられた立て看板が話題になっています。
平成30年5月13日付読売新聞朝刊の「編集手帳」にはこんな風に記載がありました。

編集手帳

戦前の、ある旧制中学の話だ。紳士たれ、と語る校長はライバル校にイートンやハローなど英国のエリート養成校の名を挙げた。ゲートル着用を命じる将校には「我が校は自由を尊重する」とやり返した
教師はシェークスピアやノバーリスを教えた。スボンの折り目だけはきちんとつけるように。学校からの指示に、生徒は毎晩、霧吹き、寝押しを欠かさなかったという
抵抗や反抗することではない。自分はこう生きるのだと、強い意志を示すことが自由だと教わった―。この中学に通い、後に京都大の学長を務めた西島安則さんの弁である
これも自由を巡る論争か。京大のキャンパスの外周、学生らが公道に立てかけた数々の看板は条例違反だと、大学が撤去に乗り出した。「立て看板は京大の文化。自由な学風はどうなる」。学生が反発し、騒動になっている。
双方、たかがタテカン、されどタテカンなのだろう。「結晶は完璧になると成長しない。整いすぎる時には異質なものが必要だ」。西島さんはこんな言葉も遺した。正論、大人の常識にどう抗うか。自由を持ち出す学生には覚悟と独創性がいる。
平成30年5月13日 読売新聞 編集手帳


なんとなくもっともらしい事が書かれている気がして 「なるほど」 と思ってしまう人もいるかも知れませんが、この文章はちょっとおかしいと思いませんか?

以前であればそのままブログを続けて書いていましたが、少し改行を多く取るので、もう一度読み返して考えてみて下さい。







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2018年05月14日

奉納演奏

奉納演奏 という言葉を聞いたことがあると思います。
神社やお寺の境内で音楽などを奏でる行事が行われると、大抵「奉納演奏」と書かれていたりします。

でも、神社仏閣の境内で演奏することが「奉納演奏」ではありません。
つい先日、そんな話を ”神職ではない方” としておりましたので、ちょっと記しておきたいと思います。

お話したお相手は、とある会社の代表者。
神社が大好きでいろんな神社にお参りに行かれたりするそうですが、時々奉納演奏ではない奉納演奏を目にすると言います。
この時点で何を仰っしゃりたいのか概ね想像はつきましたが、続けてお話を伺うと、私と全く同じ考え方でした。

奉納演奏というのは、文字通り演奏を奉納することです。
「奉納」ですから、その対象は神社であれば神様、お寺であれば仏様な訳です。
ところが「奉納演奏」と称しながら、神社の本殿や、お寺の本堂を背にして、集まった人たちに対して演奏している写真をしばしば目にします。
これは 「奉納演奏」 ではありません。

ちょっと想像してみて下さい。
あなたがコンサートやライブに行くとします。会場につくと、あなたの席は演奏者の後ろでした。
つまり演奏者の背中は見えるけど、顔は見えない場所があなたのお席です。
普通そういう席はないと思いますが、極稀に会場の都合でそういうお席が提供される場合もありますね。
でも、それがVIP席だったらどうでしょうか?
すくなくともVIP席を準備しましたと言われて、そのアーティストの顔も見ることが出来ない、舞台の後方の席です。
勿論、舞台正面には席があります。

本殿や本堂を背にした舞台での演奏は、つまりは神様や仏様は今記した、舞台背面の席で聞くことになるわけです。
しかし「奉納演奏」ですから神様仏様がVIP・・・。

これは、演奏する側も気づかなくてはならないのですが、やはりそれ以上にその神社の神職や、そのお寺の僧侶がもっと気づかなくてはなりませんし、注意しなくてはならないと思います。

伊太祁曽神社の場合、奉納演奏をしたいとお申し出がありましたら、その旨をちゃんと理解してもらいます。
つまり 「神様に対して演奏したいのか、それともこの場所で多くの人たちに聞いてもらいたいのか」 ここを明確にしてもらいます。
神様に聞いていただきたいという趣旨でしたら、当日はまず正式参拝をしていただき、引き続いて神前にて神様に相対して演奏して頂きます。
折角の機会ですので、演奏を聞きたいという方もいると思いますので、その方々には奏者の左右にお席を設ける場合はあります。

また、それなりに大規模で取り組む場合には奉納舞台での演奏をお願いしています。
勿論奉納舞台ですから、舞台正面は本殿を向いています。
但し、それなり本殿まで距離がありますから、舞台の前に人間の観客席を設けることは可能です。
神様の方を向きながら、多くの方にも聞いていただくことができる設営の 「奉納演奏」 も可能です。

そして、単に神社という空間を使って演奏を行いたいという趣旨の場合、その目的や内容によっては許可する場合があります。
但し、演奏場所として拝殿前はお断りをしています。いわゆる外苑部分などでの取り組みをお願いしています。  

2018年05月02日

神社の参道の中央を歩いてはいけないのか?

ここ数年、神社での参拝作法などをテレビや雑誌などで取り上げてくれています。
一時期に比べると、手水をきちっと取ってから参拝する人が増えたようにも思います。

ところで、神社での参拝作法を説明する一連の流れの中で、「参道の中心は神様の通り道だから通ってはならない」というのがあります。
確かにもっともらしく聞こえるので実践している参拝者も多くいらっしゃいますし、同行者が参道の中心を歩いていると注意している人もしばしば目にします。
一方で、我々神職は祭典での参進などでは参道の中心(正確には少しだけ中心を外すのですが)を歩きます。

参道の中心を歩くことについては興味深い資料があります。
江戸時代前期に編集されたとされる 『神拝式類集』 という書物に次にような文章があるそうです。
凡参道歩行於中央事、可有思慮

およそ参道の中央を歩行するのこと、思慮あるべし とでも読むのでしょうか。
「参道の中央を歩くときは慎みの心を持ちなさい」という意味であろうと解釈されています。

この書は参宮の次第について纏めたものとのことで、つまりは神職ではなく一般に向けたものということになります。
したがって、江戸時代前期頃においては 「参道の中央を歩くべきではない」 ということにはなっていないのですね。

これは非常に興味深いことです。  

2018年04月30日

アベガー、アベガー

4月8日に松山刑務所から逃走した平尾容疑者が逮捕されたとの報がありました。

愛媛県の松山刑務所から逃走し、瀬戸内海の向島に潜伏しているとされ、警察は何度も山狩りをして捜索しましたが発見できませんでした。
警察は当該に出た形跡がないとして捜索を続けていましたが、逮捕されたのは広島市南区。向島から直線距離で65kmも離れているということです。

逃走中のニュースでは「治安が・・・」とか「危険で夜も眠れない・・・」などの報道もありましたが、平尾容疑者は窃盗犯であり、また収監中は模範囚であったとのことですので、これらの報道には私は少し違和感を持っていました。
逃走したのが連続殺人犯とか無差別殺人班とかであれば、報道のコメントも分かるのですが・・・・。
(実際に逃走にあたって窃盗もおこしているようなので、全く治安に問題がなかった訳ではありませんが、ニュースの意図はたぶん違うので・・・)

さて、平尾容疑者の身柄を拘束した報に対して、SNSでもいろんなコメントが流れていましたが、やはり中には意味不明なものがありました。

結局、島にはいなかったってこと。
島にいる!とずっと探してた適当さの責任は誰がとるの?

そもそも、松山刑務所だっけ?
塀のないところ。
塀のない刑務所を長年受け入れてきた住民の責任、刑務所は刑務所として、分厚く、背の高い塀を作ってこなかった今までの法務大臣や法務省、自民、公明、民主の過去と今の政府、自治体の責任やろ。
コレも安倍晋三の政権で起きてる。

刑務所はしょせん刑務所。
塀は必要。
塀のない刑務所なら、わざわざ実刑にする必要もない。
実刑は塀のある社会と完全隔離されたところで刑が執行されるから刑務所やろ。
そんな刑務所になんて、塀の中になんて行きたくない!として犯罪の抑止にもなってる。


前段はわかります。私もそう思います。
島からは出ていないと山狩りを何度も行って、結局の所島からは出ていたというのは、警察の捜査能力が疑われます。
これは大きな問題だと思います。

しかし中段はおかしいですね。
調べてみると松山刑務所というのは古くからあったようです。現在の「大井造船作業場」が開設されたのは昭和36年のことのようです。
その後、昭和47年に刑務所の敷地が移転したり、平成15年に増築されたりしています。
したがって

「分厚く、背の高い塀を作ってこなかった今までの法務大臣や法務省、自民、公明、民主の過去と今の政府、自治体の責任」

という意見はわかりますが、「安倍晋三の政権で起き」たことではありません。
なんでも 「アベガー、アベガー」というのはやめましょう。

そして後段ですが、なぜ塀のない刑務所が存在するのかということです。
刑務所は基本的には刑を執行する場所として存在しますが、社会復帰のための支援をする施設という側面を併せ持つ刑務所もあります。
松山刑務所大井造船作業場は社会復帰支援色の極めて強い施設であり、日本で唯一の塀のない刑務所として知られています。
ここでの受刑者の生活は、非常に厳しい規律での生活であり、些細なミスでも厳しい指導を受けるようです。睡眠時以外は高い緊張感を持った生活を強いられるため、本所に戻ることを希望したり、また喫煙や飲酒などの規則違反によって本所に移送される受刑者もいるそうです。
これだけ厳しい環境での生活を送るため、出所後の再犯率は非常に低いという特徴があるようです。また仮釈放が早くなり、刑期が短くなるという利点もあるそうです。

「刑務所になんて、塀の中になんて行きたくない!として犯罪の抑止にもなってる」

というのは、御説ご尤もでありますが、一度でも犯罪を犯した人間を認めないというのもいかがなものであろうかと、難しい問題です。

開放型刑務所の存在意義については「なるほど」とは思いますが、しかし開所以来、平成30年4月までに17件20人の逃走事案があったというのは大きな問題だと思います。この点については、しっかりと改善や見直しが必要ではないでしょうか。
  


2018年03月28日

「譲位」と「退位」

以前、このブログでは「譲位」と「生前退位」について取り上げました。
http://itakiso.ikora.tv/e1240321.html

都合、何度か御代替わりについても記してきました。
余談ですが、先般とあるアナウンサーが 「御代替わり」 を 「おん、だいがわり」 と読んでいました。これって「みよがわり」のはずなんですが・・・。

さて、御代替わりまであと1年余りとなり、関連の報道も増えてきました。
当初は「生前退位」などという言葉も用いられており、私は非常に不快に感じましたが、さすがに ”生前” は消え、「退位」という表現に落ち着いたようです。
http://itakiso.ikora.tv/e1240321.html

一方で、陛下が位を退くことについては「譲位」という言葉もあり、「退位」と「譲位」についていろいろと議論があります。
政府は「譲位」ではなく「退位」という言葉を用いていますが、それはなぜなのか、腑に落ちる記事があったので以下に転載します。

大祓の時に「諸々聞食せと宣る」のあとに諸員が「オー」と唱へるのを「称唯」と書いて「イショウ」と読む。漢字の順番通りなら「ショウイ」と読むのは、「ショウイ」が「ジョウイ」と通ずるのを憚っての有職読みとされてゐる。古人は「譲位」でさへ憚ったのであり、まして「退位」の語を軽々しく使用するのは不敬なことに違ひない。


つまり、「譲位」を連想させる「ショウイ」という言葉すら使用することを避けたのだから、まして「退位」などを用いるのは不敬に違いないと昔の人達は思っていたのだろう、ということです。
そもそも「譲位」と「退位」は、共に位を退くことを意味しますが、そのニュアンスは少し異なります。
「譲位」は文字通り 位を ”譲り” 退くわけですが、「退位」は 位を退く ことを意味するだけです。
つまり意味的には 譲位<退位 であり、譲位は退位に含まれるわけです。
そして、その違いから、やがて「退位」には、天皇の意思と関係なく位を退かされる場合に用いられる、という理解になったとも言われます。

改めてまとめるならば、
 ・天皇が位を退く意思をもっての「退位」を「譲位」
 ・単純に天皇が位を退くことは一様に「退位」と言っていたが、上記のことから、意思を伴わない場合を「退位」
と使い分けるようになった、との解釈が一般的になっているようです。
そして、それ故に今回の御代替わりは「譲位」であって「退位」ではない、という論調が多数を占めているのでしょう。

さて、記事は次のように続けます。

 だが、その「退位」の語を、なぜ政府が使用し、特例法に明記し、これを国会で承認したのか。この点を踏まへて不敬かどうかを、情感だけでない、法制的課題としても理解する必要があるのではなからうか。
 政府は「譲位」の語を使用しなことに徹底してゐる。それは「譲位」といふと、それが天皇の意思ないしは発意によってなされることになるからとされる。それは憲法違反になるので、天皇が自らの意思で御位に就くことも、また退くこともできないとの法理を厳守しようとしてゐるのである。


以上 「神社新報」平成30年3月26日付 神奈川県瀬戸神社 佐野和史宮司の投稿記事より抜粋転載


日本国憲法の第4条には
天皇は、この憲法の定める國事に關する行爲のみを行ひ、國政に關する權能を有しない。

とあります。つまり憲法の規定では天皇がその位に就くことも、また退くことも、全て憲法及び法律によって決められるものであって、天皇御自らの意思であってはならないと解釈されるのです。
したがって、「譲位」の語を用いることは、天皇が御自らの意思により帝位を退くことを意味するために、政府は「退位」を用いることにこだわるのだという理解です。

日本国憲法第9条を厳密に解釈するならば、自衛隊が存在することは憲法違反となる訳ですが、現実にはそうならずに世の中は廻っています。
今回の御代替わりにおける「譲位」と「退位」の用語使いは、自衛隊の問題に比べれば些細なことのようにも見えますが、しかし我が国の根幹たる皇室のこと。それも天皇陛下の御事ですので、万が一もあってはならないことです。
残念ながら、日本国内、否日本人の中にも天皇陛下の御存在、皇室の御存在を快く思わない人が存在する御時世ですので、万難を廃するのは止むを得ないとも思います。

しかし、翻って、その様な不自由な憲法がそもそもおかしいのではないかと、改めて思うのです。
今上陛下は、初代神武天皇より数えて第125代目。初代神武天皇が即位されてから、今年は2678年が経ちます。
たかだか施行後100年にも満たない日本国憲法で規制できるものではなく、実態に合わせて憲法を制定すべきであろうと思います。

先日の自民党党大会で、安倍晋三総裁は憲法改正に強い決意表明をされました。
日本人による、日本国らしい憲法を1日も早く制定して欲しいと強く願うところです。