2014年12月08日

誤った日本語の責任

このブログではしばしば 誤った日本語 などについて触れることがあり、読まれた方から賛同の意見や、はたまた厳しい反対意見を頂くことがあり、いろいろと勉強になっています。

誤用された日本語はどこに責任があるのかというようなことが、しばしば引用させていただいている 『神社新報』 に記されており、成程 と感じたので転載させていただきます。

▼年末恒例「ユーキャン新語・流行語大賞」の候補に「号泣会見」があった。泣きじゃくりながら言ひ訳をする兵庫の野々村議員を思ひ浮かべてゐて、ふと先日、映画館で聞いた気になる一言を思ひ出した。「最後の場面で、思はず号泣しちゃった」。▼「号泣」の本来の意味は、野々村議員のやうに「大声をあげて泣くこと」。従って映画館で本当に号泣してゐる人がゐたら、ただごとではない。他にも「声も出さずに号泣」など、不可能な用例は数多存在する。▼『岩波国語辞典』の「はじめに」では日本語の曖昧さについて、「日本語自身の責任」といふより、「使う人」に責任がありさうだとした上で、かう繋ぐ。「各人が、一語一語の基本的な意味を明確にはとらえていないで、その場その場でかなり勝手気ままな使い方をするために、社会全体から見ると、結局、その語の意味がきわめてあいまいだということになるのではなかろうか」。▼講談社『類語大辞典』で調べれば、動詞だけで七十二種類もの「泣き方」が存在する。すべてを遣ひこなすのはむつかしいだらうが、せめて遣ふ語の意味は明確に捉へたいものだ。勝手気ままに使ふのであれば、映画館で号泣するのと同じくらゐ迷惑になりかねない。


誤用の方が広く知れ渡り、誤ったまま一般化してゆく状況について 「言語は時代と共に変化するのだから、今は誤用ではない」 という人がいます。
しかし、それは本当に 言語が生きているから という理解で良いのでしょうか?
岩波国語辞典の はじめに の理解で行くならば、誤用の一般化は国語力の低下ということではないのでしょうか。
そして国語力の低下は、古典が読めなくなる、理解できなくなるというところに繋がって行くと思います。

今年話題となった音楽にディズニー映画 「アナと雪の女王」 で使われた 「Let it go」 があります。
♪ レリゴー レリゴー
というフレーズをよく聴きましたが、この邦訳が 「ありの~ ままの~」 となっていますね。
なんでも、キャラクターの口の動きに違和感がないように訳詞を選んだ結果だそうですが、私はいつも違和感を覚えるのです。
Let it go の邦訳として正しいのかそうでないのかはよくわかりませんが、少なくともあの場面にはそぐわない歌詞だと映画を見ていて感じた記憶があります。
「ありの ままの 姿見せるのよ」 これまでの束縛から解放されてのびのびしているイメージを受けるのですが、実際にはこの歌が歌われる場面はどちらかというと半ば自暴自棄になってお城から飛び出して誰にも構ってほしくない、放っておいて欲しいという場面だったと思います。

誤用という話からずれてしまいましたが、読解力という点では国語力に通じるものがあると思うのです。

誤用の責任が使用する人間にあるのであれば、教育の段階で沢山文章を書かせるなり発言させるなりし、その過程において誤った日本語は適宜正すということを繰り返すのが重要なのでしょうが、最近は学校の先生方でも日本語の怪しい方を見受けます。

もう一度ネジを巻き直して、日本人の日本人たる日本人らしさを次世代に引き継いで行ける環境を造らなくてはなりませんね。